発達障害の人は自分に自信がなくて、自己肯定感が低い人が多いと思いませんか?
広汎性発達障害と軽度知的障害の娘は、小さい頃からできないことがたくさんあって、あまり自分に自信がありませんでした。
しかし、ものすごく頑張った末に「できた!」という成功体験も持っています。
現在は、一年間のチャレンジ雇用での就職体験を終え、雇用保険をもらいながら受けられる、障害者のためのパソコン教室に行くための準備をしています。
就労のために、次々にいろんな訓練にチャレンジしようとする原動力は、「できた!」体験があったからなのかなと感じています。
どのような「できた!」体験があったのかお話ししていきます。
苦手なプールで校長先生と泳げるようになる
水が怖くてプールで固まって動けなかった
小学校に入ってしばらくすると、体育の時間に水泳の授業が始まります。
低学年の頃は、浅くて小さい補助プールで水に慣れる練習をしていきますが、三年生になると、大きな深いプールで本格的に泳げるようになるための授業が始まりました。
三年生の水泳の授業が始まってすぐの頃、用があって学校を訪れた際に、担任の先生に呼び止められました。
全校生徒が30人ほどの小さな学校で、授業参観などの行事の後に担任の先生とじっくりと話す機会がたくさんありました。
他にも、週に1回隣町の小学校へ言葉の教室に通うために、昼休みに車で娘を迎えに行く時にも、担任の先生とよく話したりしました。
先生の話では、娘はおそるおそるなんとかプールには入るのですが、その後はプールサイドにしっかりつかまって一歩も動かずに固まっているのだそうです。
どんなに、「ちゃんと足が届いてるし、顔も水から出ているし、先生がついているから大丈夫だよ」
と言い聞かせても頑としてプールサイドにつかまって全く動こうとしないようなのです。
クラスメイトが変わる代わる声をかけに来ても、イヤイヤと首を振るばかりで、補助プールでは全く問題なく動き回るのに、プールが大きくなると固まって動けなくなるようなのです。
先生も娘一人にだけ関わってもいられないので、水泳の授業中の大半は、一人でプールの端っこで怯えているので心配でもあるし、放っておくのもかわいそうで困っていると言うことでした。
娘には25メートルのプールがいったいどんな風に見えていたのでしょうか?
聞いても上手く答えられないので、本当のところはよく分からないのですが、もしかしたら、広い大海原の真ん中で、小さな流木につかまって浮かんでいる感じなのかもしれません。
この頃は、階段を登るのは平気なのに、降りる時はへっぴり腰になって、両手でしっかり手すりにつかまって、おそるおそる一段ずつ降りていたので、断崖絶壁にある100段くらいの急勾配の階段に見えていたのかもしれません。
学校がお休みの日に、市民プールに連れて行って慣れさせようと試みましたが、そんなにしょっちゅうは行けなくて、なかなかプールに慣れなくて困っていたのでした。
校長先生が一緒にプールに入ってくれる
そんな中で、担任の先生から
「今日は校長先生が水着を持ってきて、水泳の授業に参加して一緒にプールに入ったんですよ」
と報告がありました。
これで、担任の先生も授業に集中できますし、なによりも怖い水の中で一人ぼっちで耐えるのではなく、ずっと横に校長先生がついていてくれるのです。
本人も
「今日は校長先生とプールに入ったんだよ」
とうれしそうに話していました。
校長先生は、毎回水泳の授業のたびに一緒にプールに入ってくださいました。
すると、徐々に水への恐怖が薄らいできて、水の中に顔をつけられるようになり、プールサイドからも手を離しても怖がらないようになってきました。
ある日、担任の先生が
「娘さん、プールの真ん中まで歩いて行きましたよ!」
プールの縦ではなく、横の真ん中辺りまで歩いて行って、慌ててまたプールサイドまで帰ってきたそうです。
それでも、全く動けずにプールサイドで固まっていた頃と比べれば大きな進歩です。
校長室にお礼を言いに行くと
「順調に行くと水泳大会にも出られますよ」
と言われ、間近に迫る校内水泳大会に「まさか」と思ったのでした。
校内水泳大会で25メートルプールを泳ぎ切る
水泳大会が開催される直前ギリギリで、25メートルを数回途中で足をつきながら泳げるようになったとは聞いていました。
あれだけ怖がっていたので、本当に泳げるようになるとは思ってもいなかったのですが、指導してくださった校長先生が、決して無理をさせずに本人のペースに合わせて、ずっと付き合ってくれていたからだろうと思いました。
水泳大会当日は「よういスタート」で飛び込みはさすがにできないので、水に入った状態で泳ぎ始めました。(クラスメイトはじゃんじゃん飛び込んでいました)
みんながゴールしても、娘はまだプールの真ん中にも届かず「チャポン、チャポン」とゆっくり手足を動かして泳いでいました。
ゴールまでに一回だけ足をついて止まっただけで、時間はかかりましたが、ちゃんとゴールできました。
小さな学校なので、応援にきていた父兄のほとんどが、娘が学校でどんな様子なのかよく知っています。
かなり遅れてのゴールにも関わらず、大きな拍手と「◯◯(娘の名前)よくやった!よくがんばった!!」との声援もたくさんかけてもらいました。
相変わらずビリだったことも、遅れてゴールしたことも、娘には全く気にもならなかったようで、25メートル泳ぎ切ったことだけが嬉しかったのでした。
ダブルタッチに挑戦した
四年生の時には「ダブルタッチ」に挑戦しました。
イベントに出場するために、四年生以上の全校生徒がダブルタッチの練習することになったのです。
ダブルタッチとは、二本のロープを使ってリズミカルに跳ぶ縄跳びですが、回し手二人が二本のロープを持って、半周ずつズラしながら縄を回して、跳び手は中に入って跳びながらパフォーマンスをする競技です。
私もちょっとやってみましたが、まず次々と回される二本のロープの中に入ることが簡単には出来ませんでした。
娘は普通の一人で短縄で跳ぶ縄跳びも、ただ数回回しながら跳ぶくらいしかできないし、大縄跳びをしても中に入るタイミングがなかなかつかめずに、そうとう時間をかけてから回る縄の中にやっと入っていく状態です。
先生方や指導者の方にも
「跳べないようでしたら、手拍子をしながら歩き回るだけでもいいです」
と伝えたのですが
「おかあさん、大丈夫ですよ。ゆっくり練習すれば跳べるようになりますよ」
と言われていました。
練習が始まると、早い子はすぐに跳べるようになり、跳びながらパフォーマンスもできるようになりました。
なかなか跳べなかった子も、練習を重ねると次第に跳べるようになり、跳べないのは娘一人だけになりました。
この時も、イベント直前になってやっと跳べるようになりました。
跳べなくてもいいくらいに思っていたので、跳べた時の喜びはとても大きかったです。
イベントでは、たっぷりと練習を積んだ子供たちは、跳びながらダンスをしたり、逆立ちをしたり、大縄が回る中で短縄で縄跳びをしたりと、様々なパフォーマンスを見せていました。
イベントでの娘のパフォーマンスは、回る縄の中に入って数回跳んで、バイバイして出ていくくらいでしたが、跳べただけでも満足だったので、それでも十分でした。
ダブルタッチが「できた!」体験はよっぽどうれしかったようで、しばらくはずっと周囲の人に
「私も、ダブルタッチできるんだよ!」
と自慢していました。
バレーボールでフェイントで落とされるボールが拾えた!!
スポーツ少年団に入りバレーボールを始める
娘は小学二年生から学校のスポーツ少年団に参加して、バレーボールを始めました。
特に、スポーツが好きなわけではなく、バレーボールが好きなわけでもなかったのですが、同級生全員が一年生の頃から入っていたので、自分もやらないと仲間に入れないと思って始めたのでした。
一年生の時に「みんながやってるから私もやりたい」と言っていたのですが、学校に行くことで精一杯の状態で、宿題も何度も声をかけないと終えられないことが多くて、放課後にバレーボールをするのはとても無理があったので、一年見送ったのでした。
「みんながやってるからって、絶対に同じことをしないといけない訳じゃないんだよ。バレーボールの練習で疲れて、授業が受けられなかったり、宿題ができなかったりしたら、何のために学校に行ってるのか分からないんじゃない?バレーボールは学校に慣れてからにしようね」
となんとか言い聞かせても納得してもらえました。
二年生になって、決して余裕が出てきたわけではなかったのですが、一人だけやってないとなると、クラスメイトと話が合わなくなるのを心配して、仕方なく始めたのです。
レギュラーメンバーになり試合に出るようになる
四年生まではほとんど試合に出ることもなく、練習もボールと戯れている感じでした。
しかし、五年生になると団員の数が少ないことで、娘が入らないと試合には出られなくなるので、レギュラーメンバーになり、毎試合出場することになりました。
とは言っても、サーブをしてもネットを超えられず、10本に1本くらい奇跡的に相手のコートに入ればマシなくらいです。
ポジションはバックライトで、小学生のバレーボールはフリーポジション制で、ローションがないので、その位置からは動きません。
娘のところにボールが来ると周囲がすぐにカバーに入り、サーブ以外でボールを触ることはありませんでした。
本当に頭数を揃えるだけの人員でしたが、自分がボールに触ると失敗することがわかっていたので、娘もそれでかまわないようでした。
でも、娘の目の前にフェイントで落とされたボールはどうしても拾うことができないので、失点になるしかありません。
相手チームもそれが分かっているので、娘に向かってフェイントでボールを落とすシーンがたびたび見られていました。
コーチは時間を見つけては、娘にひたすら目の前に落ちてくるボールを拾う練習をさせていました。
六年生になった時の試合で、娘の目の前にフェイントのボールが落ちて来たと同時に、娘が前に飛び込んでレシーブをしてボールを拾い、繋いだボールが得点へと繋がりました。
会場はまるで強烈なアタックが決まったか、サービスエースが決まったかのように盛り上がり、チームメイトが娘の周りに集まってハイタッチで喜び合いました。
応援に来ていた父兄も、娘がひたすらフェイントを取る練習をしていたのを知っているので、落ちてきたボールを拾った瞬間に大きな声援で応援席がどよめいたので、何事かと周りがびっくりしてこちらの様子を伺っているのがわかりました。
試合の後も顧問の先生やコーチ、チームメイトや応援の父兄にまでも口々に褒められて、相当嬉しかったようでした。
決して、バレーボールが大好きで始めたのではないのですが、ずっと練習に参加して、試合にも出場するようになったら、自分の立ち位置がわかるようになって、自分に求められていることも理解して、少しでもチームの力になりたいと努力していたのでした。
「できた!」が力になっていく
普段から、勉強をしてもスポーツをしても何をやってもいつもビリで、みんなの背中しかみたことないのです。
いくら
「ただのビリじゃないんだよ、もともと苦手なのにあきらめずにたくさん頑張っているのだから、順位は気にしなくてもいいんだよ、あなたがすごく頑張っているのちゃんと知ってるから、ビリでもとても偉いビリなんだよ」
と日頃から声をかけていても、やっぱり目に見える結果が気になるし、みんなと同じようにできないことが多くて、劣等感でいっぱいだったと思います。
そんなことばかり続くと、自信を失くしてしまって、一体何のために頑張っているのかが見えなくなってしまいます。
ほんの少しでも手応えのある「できた!」があって、それをみんなに認めてもらえて、それらが支えになってくれていたような気がします。
「できた!」ことは、その後も何度も話題にしたがって、いつまでも「うれしかった記憶」を呼び戻していました。
小さな学校だったので、学校全体でフォローしてもらえて、常に誰かがサポートしてくれていたからできたことでした。
娘はスポーツ少年団の活動以外にも、本人がやりたいと望んで、ピアノや習字の習い事もしていました。
どう考えてもオーバーワークだったので、
「そんなにあれもこれも全部はできないから、無理しないでどれか辞めてもいいし、しばらくお休みしてもいいんだよ」
と言っても、絶対に辞めようとはしませんでした。
むしろ、学校に行くよりも習い事に行く方が楽しかったようでした。
学校ではどんなに頑張ってもビリなのに、好きで始めた習い事だとビリではないのです。
習い事の教室でも先生の教えを忠実に守るので、たくさん褒めらるのが嬉しくて、熱心に練習していました。
そのせいか、特に習字教室では、検定試験に応募すると必ず入賞して、一番いい賞をもらったりしていました。
習い事の教室では、劣等生でもビリでもないので、通うのが楽しかったようなので、本人の「やってみたい」気持ちを尊重することが大事なんだと感じました。
だからと言って無理にやらせようとしたり、たくさんやらせすぎても続かなくなるので、どこまでできるのか見極めるのが大切になってきます。
正直言ってこの頃は、あまりたくさんのことにチャレンジするので、疲れて潰れてしまうのではないか?と思いハラハラして見ていました。
自分で決めたことだから頑張れるし、無理かな?と思ったらすぐに方向転換すればいいと思っていました。
この頃に経験した「できた!」を今でもしっかりと握りしめていて、新しいことへのチャレンジに向かっているのではないかと、感じるこの頃です。