広汎性発達障害と経度知的障害の娘は、中学校に新学する際に、特別支援学級に籍を置きながら、普通学級(通常級)で過ごす選択をしたのですが、すぐに学校に行けなくなり不登校になってしまったのです。
娘が学校に行かなくなって、親としてまず最初に考えたのが
「このままずっと行かなくなったらどうしよう。休んでしまうのか癖になる前に、なんとか説得して学校に連れて行かなければ」
でした。
ベットから出てこない娘の枕元で、延々と学校に行くことの大切さを訴えて続けた結果、娘はますます心を閉ざしてしまいます。
そんな時に、特別支援学級の担任の先生が訪ねてきて、娘が再び心を開くきっかけを作ってくださいました。
私も自身の不登校の経験を思い出して、娘の気持ちを考えられるようになりました。
心が折れて学校に行けなくなった娘にとって必要だったのは、寄り添うことと、見守ることだったのです。
ある日突然学校に行かなくなる
娘を含めて同級生が4人の小学校から、1クラス30人余りの中学校に新学した娘は、狭い世界から羽ばたくように、意気揚々として毎日を送っていました。
というか、あまりにもテンションが高すぎて心配になるくらいでした。
テンションが高いと周りが見えなくなり、自分の言いたいことだけを言い続けて一人で空回りすることがあります。
今でもよくあるのですが、私と話をしていても、言葉の使い方を履き違えていたり、常識的なことを勘違いしたまま理解していたりして、話が噛み合わないことがあります。
それに加えて、男子に興味があることを口に出すのが恥ずかしいとことだと気が付かずに、聞かれたら臆せずに話すので、あっという間にからかいの対象になってしまいました。
学校で起きているこういう話は、特別支援学級の先生から聞いていました。
先生からも、私からも、学校の中で周囲の人と付き合っていくのに気をつけることを話したりしていたのですが、テンションの高い状態だと全く耳に入らなかったようです。
そんな状態でも、特にそれほど問題なく毎日学校に行っているように見えました。
6月に入り、新しい生活の疲れから体調を崩し、学校を休む生徒が目立つようになりました。
娘も帰宅してから
「今日は◯◯さんが休んだ、昨日は◯◯君だった、◯◯さんは何日も休んでる、疲れているみたいだよ」
と頻繁に学校を休む同級生の話しばかりするようになりました。
後になって考えると、実は私も疲れてるというSOSだったのかもしれません。
ある日の朝、「頭が痛い、お腹が痛い」と起きてきませんでした。
特にどこか悪い様子も見られないので、「疲れたのだろう、1日くらいは休んでも仕方がないか」とゆっくりと休んだにもかかわらず、翌日も、また翌日も起きてきませんでした。
「まさか、学校に行きたくない?サボりなの?」
焦りと、心配と、不安でいっぱいになったのでした。
枕元で延々と説教する
「学校を簡単に休んでしまう習慣がついてしまうと、サボリ癖がついてしまうかもしれない、今のうちにまた学校に行けるようにしないと」
まずはそう考えました。
娘の枕元に行き
「学校に行きたくないの?学校で嫌なことがあったの?」
と聞いても、娘はうつろな目で遠くを見つめたまま答えようとしませんでした。
特別支援学級の先生から学校での様子は聞いていたので、おそらくからかわれたり、相手にされなかったり、仲間外れだったりが原因ではないだろうかと予想はしていました。
娘は、自分で自分の気持ちがよく分からないのか、表す語彙が思いつかないのかはよく分からないのですが、小学校の頃から自分に起きたことや、自分の気持ちをうまく言葉で表せないでいました。
学校に行けない気持ちをうまく話せないのかもしれないし、もしかしたら分かっていても話したくなかったのかもしれないし、もっと他のところに原因があったのかもしれません。
それでも、「とにかくなんとかしなければいけない」と考えて、私は娘に、学校に行かなければ将来とても困るんだと話始めました。
・・・ほとんど脅しですね・・・
娘はうつろな表情で、話を聞いているのか聞いていないのか全然わかりません。
焦点の合わない眼差しは、どこを見ているのか分からずに、いったい何を考えているかと不気味にさえ思われゾッとしました。
それでも、なんとか分かって欲しい一心で
そこまで言うと、娘は布団を頭から被ってしまいました。
「聞いているの?」
と布団を剥がそうとしても、すごい力で抵抗してきます。
それからは、何を言っても私を拒絶するようになり、部屋から一歩も出てこなくなりました。
後でつくづく思ったのですが、言ってることは間違ってはいなくても、学校に行けなくなる
くらい心が折れてしまった人に対して、絶対に今はかけてはいけない言葉でした。
自分が学校に行けなかった時のことを思い出した
実は、私も高校3年生の頃に、ほんの2ヶ月ほどですが、学校に行けなくなってしまったことがありました。
友達との関係がこじれたことで、自分の居場所がなくなってしまったのが原因です。
親は「ある日突然学校に行かなくなった」と思ったようですが、決して“ある日突然”ではなく、そこまでにはたくさんの葛藤がありました。
学校に行き続けるために、自分の居場所を確保するために散々足掻いてみました。
それでもダメなら、一人でも平気でいられるための工夫をしてみたものの、もうどうにも打つ手がなくなりました。
神経をすり減らしてしまって、とうとう学校にいくことを断念したときには、疲れ切って何も考えられなくなっていました。
娘の焦点の合わないうつろな、どこかに意識を飛ばしてしまったような目を見た時に、その時のことをふと思い出したのでした。
娘だって、学校に行かなければいけないことはちゃんと分かっているはずです。
だからたくさん我慢をして、行こうとしていたに違いない。
パンパンに膨らんだ風船が、少しの刺激で破裂するように、我慢に我慢を重ねて、我慢が限界に来てしまったのではないのだろうか?
そんな状態の時に頑張れって・・・
障害に負けるなって・・・
もう散々頑張ったのに、これ以上どう頑張ればいいのでしょうか。
家の中にまで居場所がなくなってしまったら・・・
私が学校に行けない間は、四畳半の小さな自分の部屋だけが安心して落ち着ける場所でした。
親が心配しているのはよく分かっていました。
分かっているからこそ、辛くて顔を合わせられなくて、学校に行かないことが後ろめたくて誰にも会いたくなかったのです。
家族が起きている時間は自分の部屋でひっそりと息を潜めていて、みんなが寝静まってから、あるいは仕事に行って誰もいなくなってから、こっそりと部屋から出ていました。
そんな時に、2つ上の姉がいきなり部屋に入ってきた事がありましたが、その時は自分の心の中を土足で踏みにじられた気がしました。
部屋から無理矢理引っ張り出されようとした時は
「この部屋から出されたら、もうこの家には居場所がないから家を出るしかない」
と思って必死で抵抗しました。
娘は、小さい頃から嫌なことがあると、布団に潜り込んで心を落ち着かせていました。
私の姿が見えると、頭からすっぽりと布団を被ってしまうので、私が来るのを怖がっているように感じられました。
布団を引き剥がそうものなら、ガードしていた物が無くなってしまい、さらけ出した傷口に思いっきり塩を塗り込まれる事になるので、必死で一枚の布団を守ろうとしていたのかもしれないのです。
これからどうなるのだろう?本人が一番心配している
娘に
「学校に行かなければ将来苦労する、大変な思いをするのは自分なんだよ、これからどうするつもりなの?」
と枕元で延々と言い続けましたが、後になってなんでこんな大事なことを忘れてしまっていたのだろうと、つくづく後悔しました。
私が学校に行けなくなったのは、高校3年の夏でした。
これから、本格的に進路に向けての準備が始まります。
こんな時に長期欠席をしてしまったら内申書に響いてしまい、進路が絶たれてしまうのはよく分かっていました。
だからこそ必死に足掻いて、なんとかして学校に行く努力をしたのに、それでも行けなくなってしまったのです。
学校に行くことをあきらめたら少しはホッとしたものの、すぐにこれから自分はどうなってしまうのだろう?将来どうなるんだろう?と言う不安に襲われました。
心配で夜も眠れずに、部屋の窓から朝日が登るのを何度も見ました。
学校に行けさえすれば解決するように思えるのですが、どう頑張っても行けないので、自分でもどうしたらいいのか分からずに混乱して、もう何も考えられずにいました。
そこに周りから
「こんなことをして、いったいこれからどうしようと思ってるの?どうするつもりでいるの?」
と追い込まれてしまってますます混乱に拍車がかかり、もっと苦しくなってしまったのです。
娘も、学校に行きたいけど行けないで困っていたのかもしれないです。
自分でもどうしたらいいのか分からなくて、どこに気持ちを持っていったらいいのか分からないでいたのではないでしょうか。
特別支援学級の先生が訪ねてくる
特別支援学級の先生には、娘の様子を逐一報告していました。
そんな時に先生から
「娘さんにどうしても話しておきたい事があるので、お伺いしてもいいですか?」
と言われました。
先生には、私が登校を無理強いしたことで、娘がすっかり心を閉ざしてしまって部屋から出てこないでいると伝えました。
先生が訪ねて来ることで更に娘を追い詰めてしまい、二度と立ち直れなくなるのでは?と恐れました。
先生は
「絶対に娘さんが負担に感じることは言いません、普通学級に行かなくていいから特別支援学級だけで過ごす提案がしたいのです」
と言われるので、先生を信じることにしました。
案の定、先生が訪ねて来ても、娘は頭から布団を被って絶対に出てこようとはしませんでした。
先生は
「怖がらなくてもいいよ、先生学校で寂しいからあなたの顔を見に来ただけだよ」
声をかけて帰って行きました。
翌日も、また翌日も先生は訪ねて来ました。
三日目くらいだったと思います。
娘の部屋からいつも聞こえて来ていた、先生が何かを語りかけている声と共に、かすかに娘の笑い声が漏れて来たのでした。
先生が娘の部屋に入って、枕元で声をかけている時は私は部屋から出ていたので、実際に先生がどんな風に言葉をかけていたのかは分かりません。
先生の話では
- 交流学級(普通学級)には行かなくていいこと。
- 学校に来る時には、他の生徒と顔を会わせないように配慮すること。
- これからは、特別支援学級で先生と二人っきりで授業を行うこと。
- 楽しめる授業にしたいので、やりたい事があれば一緒に授業で出来るので、好きなことを教えてほしいこと。
こういった提案をしていたのだそうです。
次第に部屋から出てくるようになる
先生が帰った後娘の部屋に入ると、私の顔を見るなり急いで布団を被ってしまいました。
「楽しそうに笑っていたけと、先生となにを話していたの?教えてよ」
と話しかけると、おずおずと布団から覗かせた顔は、少しニヤけていました。
娘は、先生と話した内容を私にうまく伝えられませんでしたが、事前に先生から聞いていたので、言いたいことは伝わってきました。
それからは、私を見ても布団を被って拒絶することもなくなりました。
娘の枕元で、今日は妹がこんなことを言ってたとか、犬と散歩に行ったら犬たちはこんな様子だったとか、晩ご飯何にしようか?とか、日常的な会話をするようになりました。
先生も毎日訪ねてきてくれて、娘と学校に来たらどんなことをするのかの相談をしていました。
そんな頃に先生から
「娘さんが学校に来るって約束してくれました」
との報告がありました。
でも、明日からではなくて「行ける時が来たら」と言うことなので、しばらくは見守って様子をみましょうとのことでした。
再び学校へ
それからは先生の毎日の訪問はなくなり、時々様子を伺うくらいになりました。
娘も、1日部屋で過ごしたり、リビングで過ごしたり、誰にも遠慮することなく好きな時に好きな場所で過ごすようになっていました。
私も娘も「学校に行けていない」状態なのをうっかり忘れてしまい、まるで夏休みで普通に家で過ごしています、のような感覚になった頃でした。
先生から
「どう?もう学校に行けるんじゃない?ちょっと来てみない?」
と声かけがあり
「行ってみる!」
となりました。
「特別支援学級に入るまで誰にも会いたくない」
と言うので、2時間目の半ばくらいに車で学校に行き、周囲に誰もいないのを見計らって特別支援学級に急いで入りました。
車から降りた娘は完全に挙動不審で、少しの物音や気配にビクビクしていて、まるで泥棒に入るかのように物陰に隠れながら教室へと向かうのでした。
その様子から、そうとう他の生徒を恐れていて怯えていたことがうかがえました。
こんな様子では、なんの配慮もなく登校するのはとても無理だし、学校に行く決心をするのに時間がかかったはずです。
まとめ
子供が急に学校に行かなくなると、親は動揺して慌てるし、子供の将来を考えて絶望してしまうのは当たり前だと思います。
しかし、子供は急に行かなくなったのではなくて、そこまでにたくさん悩んで葛藤して、どうしようもなくなって行けなくなってしまっています。
子供はもっともっと深く傷つき悩んでいるのです。
そんな時に脅すようなことを言ったり、無理に学校に行かせようとしたらもっと深く傷ついて、安心できるはずの家庭の中にまで居場所がなくなってしまいます。
子供の立場や状況、学校の様子や家庭の事情、子供が学校に行けなくなる理由は様々だと思います。
どんな状態でも大切なのは、子供の立場になってみて考えることで子供の気持ちに寄り添うことだと思いました。
そして家庭の中で安心して過ごせることで、子供が自分の力で立ち上がるまで信じて見守ってあげることが親の役目かなと思います。
学校で色んな人と関わることは、将来社会に出る時のための勉強だから、学校にちゃんと行っていないと人との接し方が分からなくて、あと後困るのは自分なんだ。
社会に出ると、生きていくために嫌なことも我慢しなければいけないから、学校で苦手な勉強をするのは、そのための練習でもあるんだ。
ずっと楽しいことだけして生きてはいけないんだよ。
中学校に行けないと、高校にだって行けないよ。そうなると仕事をしたくても出来る仕事が少なくなってしまう。今、楽をすると将来苦労をするんだよ、一生ベットの上で生きていくつもりなの?