プロフィール

はじめまして、ゆきまるです。

南の島で生まれて南の島で育って、結婚して子供を産んで育てて、40年近くほとんど島を離れることなく過ごしてきました。

 

島を離れて生活するようになったのは、長女に障害があることが分かって、障害を理解できない家族と離れて、長女の進学のために私と長女と次女と三人で大きな町に引っ越したのがきっかけです。

新しい生活は、三人で誰にも遠慮せずに過ごせる環境でしたが、それぞれに試練が待っていました。

 

それでも三人で助け合ってずっと生きてきました。

というか、まだまだ試練の真っ最中ですが、三人がお互いの立場や気持ちを理解して、それぞれが自分の力で乗り越えて行くことをお互いに信じているからなんとかやっていってると思ってます。

お互いを信頼して、相手の立場や気持ちを尊重し合える関係で家族が繋がっているのだと思います。

 

長女の紹介

とても几帳面で、ルールは厳格に従います。

小学5年生の時に、発達障害ではないだろうかと学校に指摘されて、発達障害者支援センターに相談に行きましたが診断をもらえませんでした。

通っていた小学校は小規模の学校だったので普通クラスで6年間過ごしました。

中学生になると、特別支援学級に籍だけを置いて、特別支援学級の先生に支援される形で普通学級で授業をうけていましたが、周囲に馴染めず虐めやからかいから学校に行けなくなり不登校になってしまいました。

この時に、特別支援学級の先生の勧めで通うようになった小児科で「広汎性発達障害」と診断されました。

1年近く学校に行けなかったのですが、特別支援学級にのみ通うことで、再び登校できるようになりました。

 

離島に住んでいたため、通える高校が少なく選択が制限されたために、島を離れて地方都市の高校に通うために家族で引っ越したものの、高校は入学式に行っただけでほとんど行けずに留年が決まったので、2年生になる時に特別支援学校の高等部に編入しました。

しかし、特別支援学校にも数えるほどしか行けなくて、高校生の3年間はほとんど自宅で引きこもっていました。

 

特別支援学校の高等部を卒業すると、本人の希望で引きこもりと昼夜逆転生活を改善するために、グループホームに入って就労継続支援B型事業所で5年間就労の訓練を受けました。

就労継続支援B型事業所の訓練を終えて、グループホームを出て自宅に帰ってきて、障害者就業・生活支援センターの紹介で地域障害者職業センターで3か月訓練を受けて、その後就労移行支援事業所で半年訓練を受けました。

就労移行支援事業所に通っているときに、病院でWAISⅢ(ウェクスラー成人知能検査)を受けて軽度知的障害だということが分かり、今までの生きづらさは軽度知的障害であることも原因だったと分かりました。

その後、公共機関のチャレンジ雇用で1年間働いてから、ハローワークのハロートレーニング(公共職業訓練)でパソコンの資格を取り、一般企業の障害者雇用で事務補助の仕事をしています。

 

次女の紹介

天真爛漫でマイペースの楽天家。

それでも人一倍、周囲の感情を敏感に感じてしまうため、小学生の時に小さな虐めを長いこと我慢し続けて、学校に行けなくなり1年半の間不登校になりました。

父親との別居のために私の実家に引っ越したのをきっかけに転校をして、転校先の学校で再び学校に行けるようになり、不登校だったことが嘘のようにたくさんの友達に囲まれるようになりました。

 

しかし、姉の高校進学に伴う引っ越しのために、せっかくできた友達と別れることになり、中学生になって転校先の学校に再び行けなくなり、重い睡眠障害にかかり精神科に入院して不眠症を改善しました。

不眠症が治ったら、本人の希望で島に帰って島の中学校に転校することになり、親元を離れて祖母の家(私の母のところ)で3年間の中学校生活を送りました。

 

高校は私たちの住む地方都市の高校を目指して帰ってきますが、再び学校に行けなくなるのを懸念して、同じ趣味の人が集まる高校なら続けられるのではと考えて、音楽科のある高校を選び、ピアノ科に在籍して卒業しました。

卒業後は国立大を目指して、アルバイトをしながら2年間自宅学習で浪人生活を送りますが、結局国立大をあきらめてアルバイトをしながら奨学金をもらって専門学校に通っていました。

現在は、地方公務員として働いています。

 

私のこと

長女の発達障害がわかり、おとうさんが暴力で障害を強制しようとして、家庭内が荒れ始めました。

同時に娘が二人とも学校に行けなくなり、元旦那も同時期に仕事に行かなくなりDVも激しくなり、過剰なPTA活動や地域活動に疲れてうつ病を発症しました。

別居して離婚してから良くなったように思われたのですが、次女の進学に合わせて引っ越しをして、新しい就職先がなかなか落ち着かずに、虐め、パワハラ、モラハラで転職を繰り返しました。

次女が高校を卒業して、大学を目指して浪人するのをきっかけに、元住んでいたところに帰って来て介護士の資格を取り、介護士として働き始めて仕事も落ち着いていたのですが、ずっと抱えていた不眠症がなぜか悪化して全く眠れなくなり現在は休職しています。

最近、薬に頼らない治療を行う精神科に通い始めて、実はうつ病ではなく持続性気分障害(気分変調症)だったことが分かり、改めて治療に専念しています。

その後の検査で、発達障害グレーゾーン、アダルトチルドレン、HSPだということが分かり、カウンセリング等の治療を受けています。

中学生の頃から洋楽ロックが大好きで、仕事や子育てで思うように聴けない時期があったりしましたが、それでもずっと音楽に支えられてきたので、ボチボチだけどロックの紹介もしています。

 

家族がお互いを信頼して助け合っていく

 

ここまでくるとなんか大変なことだらけで、辛い思いをしたのでは?

と思われがちですが、本人たちはけっこうケロッとしていて、辛いとか、悲しいとか、不幸だとか全く思っていません。

過去のことは笑って流していますし、大変だったけどこういったことがあったから、今の自分たちがいるんだと思えます。

 

引っ越しが多かったり、転職を繰り返したりで不安定な生活なので決して贅沢はできませんが、食卓は豊かでありたいといつも思っています。

それほど料理が上手いわけではありませんし、食材にお金をかけられませんが、安くて新鮮でおいしいもの、ちょっと珍しいものなどを探して歩くのが楽しくて、あれこれと試行錯誤してはいろいろな料理に挑戦して、家族で楽しく食卓を囲んでいます。

楽しみながら食べることで日々の生活の糧になるかなと思っています。

 

大変なこともあるけれど、今までなんとかなってきたのだからこれからもなんとでもなる。

それぞれが自分で決めた道をつまづきながらも歩いて行ってる。

お互いの歩調を確認しながら、自分の力で歩いて行くのをのを見守って、お互いを信頼して共に進んでいける。

そんな様子をお伝えできればと思っています。

 

 

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