広汎性発達障害と軽度知的障害の娘が不登校になった時に、学校に行けなくなった娘の気持ちを理解できたのは、私自身も不登校の経験をしたからでした。
高校3年生の夏に2ヶ月ほどですが、友達との関係がこじれて居場所をなくして、不登校になったのです。
学校に行けなくなった原因は友達との関係でしたが、学校に連れ戻してくれたのも友達でした。
「学校においでよ、心配してるよ」
と声をかけてくれた友達がいたにも関わらずに素直に応じられないでいました。
しかし、突然家へと押し掛けてきて「どうして学校にこないの?」とか「学校においでよ」と全く言わなずに普段通りに接してくれた他の友達によって、再び学校へと行けるようになったのです。
学校に居場所がない!!
高校3年の夏休み前に、一緒に行動していた友達グループから、ちょっとした誤解や勘違いが原因で無視されるようになりました。
友達に無視されて仲間外れになるのはもちろん辛いのですが、それにより休み時間やお弁当の時間に居場所がなくなるのが一番辛かったのです。
この時期になると、一緒に過ごすグループが出来上がっているので、今さらどこかのグループに加えてもらうのは難しくなっていました。
ひとりぼっちになって話をする友達がいなくなると、休み時間は自分の席で予習や復習をしているふりをしてやり過ごしていました。
昼休みは図書室でひたすら本を読んでいました。
一人でいても平気なふりをして、本当は誰かに話しかけてもらいたかったのに、逆に話しかけるなオーラを出していたのかもしれません。
お弁当が食べられなくて学校に行くのをあきらめる
一番困ったのはお弁当を食べるときでした。
一人で寂しく自分の席で食べても良かったのですが、なぜかお弁当の時間になると教室をを男子か占拠するので、女子は他のクラスでに行って食べるのが暗黙の了解になっていました。
他のクラスでは、あちこちにお弁当を食べるグループが出来上がっていて、一人でお弁当を食べられるスペースがどこにもありませんでした。
仕方がないので、ちょっとだけ親しくしていた友達のいるグループに
「一緒にお弁当食べていい?」
と言って入ったのですが、その途端に空気が微妙になり、友達も困っているのが伝わってきました。
お弁当を食べている間は、私がいないかのようにして会話が飛び交い、一人でいるよりも更に孤独を感じるのです。
「ここにいたらいけない」と感じて、お弁当をさっさと食べ終えて、急いでその場を立ち去りました。
自分の席でお弁当食べて何が悪い!と開き直って、男子に囲まれて自分の席で食べてみましたか、チラチラこっちを見てはザワザワする男子の視線に耐えられませんでした。
お弁当を持って、どこで食べようかとウロウロしていると、周りにいる生徒がみんなお弁当を食べる場所を確保できない私を嘲笑っているように感じてしまい、いたたまれなくなって校舎の外に出ていきました。
校舎の外に出ても
「あの人は、どうして教室を出て一人でお弁当を食べているの?」
と笑われているような気がして、落ち着いて食べられないのです。
そんな自分が惨めで情けなくてたまりませんでした。
とうとうお弁当の時間が近づくと早退するようになりました。
しかし、毎日早退する訳にはいかないので、お弁当の時間が原因で学校に行くのをあきらめてしまったのでした。
友達に無視されるのも辛いのですが、自分の居場所が無くなるのはもっと辛いんです。
一度無視されるようになると他の人をも疑ってしまい、誰もが自分を嘲笑っているかのような妄想にも陥ってしまいます。
このころは、誰かが話しかけてきても緊張してしまって挙動不審になり、返事をしようと思っても、どもってしまって上手く言葉が出てきませんでした。
やっと返した言葉も、こんな答え方でよかったのだろうかと、後から自分のセリフを頭の中で何度も反芻し続けたりしていました。
学校に行かないで家にいるのも辛い
学校に行くのをあきらめたことで、クラスに話す人がいなくて一人で過ごしていても平気なふりをしていたり、お弁当を食べる場所を探し回ったりする必要がなくなりました。
これで安心してできると思いきや、すぐに家にいるのが辛くなってきました。
はじめは母親が心配して、どうして学校に行かないのか聞いてきました。
とても「お弁当食べる場所がなくなったから」とは言えないので、部屋に閉じこもって家族をシャットアウトしました。
朝は、家族が仕事や学校に行ってから部屋から出てきてご飯を食べたりします。
夕方、みんなが帰ってくる頃にはまた部屋に引きこもって、暗い中じっと息を潜めて家族が寝静まるのを待ちます。
学校に行かなくて家にいるのが後ろめたくて、母親が心配しているのは痛いほどわかっているので、親不孝してみんなに迷惑をかかているのが情けなくて、家族とさえ顔を合わられないでいました。
家族がいない時間や、四畳半の小さな自分の部屋にいる時が安心できる時間でした。
しかし、自分がやった事とはいえ、すぐにこれからのことが心配になりました。
高校3年の夏、これから進路を明確に絞って、そこへ向かって全力で進んでいくのです。
こんな大切な時期に長期欠席してしまっては、就職するにしても、進学するにしてもかなり不利な状況になってしまいます。
それがわかっているから、学校に行けるように様々な工夫をして、努力したのにどうしても行けないのです。
これから自分の進路は?自分の将来はいったいどうなってしまうのだろう?
人生が終わってしまったような気持ちになり、これからのことが心配でたまらずに、夜も寝られなくなるのでした。
姉に引きずり出されそうになる
そんな時に、姉が
「いったいなに甘えてるの?!部屋に閉じこもっていればなんとかなると思ってるの?!!」
と言いながら、いきなり部屋に入ってきて、私の腕をつかんで無理矢理部屋から引きずり出そうとしたことがありました。
心の中を土足で踏みにじられたような気がして、必死で抵抗しました。
部屋に閉じこもっていることに、一番危機を感じているのは自分なんです。
だから、眠れなくなるほど不安でいっぱいで、学校に行くことによりその不安が解消されるのがわかっていても、どうしても行けないから一人で悩んでいるのです。
自分の将来が自分のせいでおかしくなっていることに、自分でもいったいどうしたらいいのかさっぱりわからないのです。
その時は母が間に入って、姉をなだめて収まりました。
それからは部屋に鍵を取り付けて、いっさい誰も入ってこれないようにしたのでした。
クラスメイトからの電話
「クラスメイトのTさんから電話がきてるんだけど」
と母が呼びにきて、どうしてTさんなんだろう?と考えながら電話に出ることにしました。
電話に出ると
「ゆきまるさん、どうして学校に来ないの?何か悩みでもあるの?話し聞いてあげるから学校に来ない?みんな心配してるよ」
と言われました。
その頃、物事を斜めに見る癖があった私は、Tさんの言葉をそう簡単に信じる事ができませんでした。
Tさんは、明るくて活発でクラスを引っ張って行く存在でした。
ある日下校していると、賑やかにお喋りしながら歩いているTさんのグループに出会しました。
そこに緩やかな登り坂を、手動の車椅子で一生懸命に登ってくるお年寄りの姿が見えたのです。
Tさんが
「困ってる人がいるよー。押してあげようよ」
と言って、みんなで「ワーッ」と駆け寄り「ワッセワッセ」と賑やかに車椅子を坂の頂上まで押してあげていました。
Tさんから電話がきた時に、なぜかその光景を思い出したのです。
お年寄りの車椅子を押したように、「学校においでよ」と誘われて学校に行くと
「来れてよかったね、声をかけてよかった」
で終わってしまい何も解決しないまま、また辛い毎日が始まるような気がするのです。
Tさんが声をかけてくれたのはありがたかったし、実際に心配してくれてのことだろうし、本気で相談に乗ろうとしていたのだろうと思われます。
私がどうしようもなく捻くれていて、どうしても“話をきいてあげる”や“みんなが心配している”という言葉を簡単に信じられなくなっていたのです。
何も返事をせず、黙ってTさんの電話を切ったのでした。
友達が家に押しかけてくる!!
Tさんから電話がきてから数日経った頃でした。
来客があったようで「ピンポン」と玄関のチャイムが鳴る音がして、母が対応しているのがわかりました。
「ゆきまる、お友達が来たよ」
と母が言った時には、Mさんを中心にした5、6人のクラスメイトがどやどやと上がり込んで来て「ゆきまるさん、遊びにきたー」と言って部屋の中に入って来たのです。
その頃は、誰も強引に部屋に入ってこなくなったので部屋の鍵はかけていませんでした。
玄関で母と話をしているMさんたちの声を聞いて、どこかに逃げようと思ったのですが、そんな暇もなくMさんたちは有無を言わさず私の部屋に入って来たのです。
そして「暑かったねー」とか普通におしゃべりしながら、持参したポテチとかスナック菓子の袋を開け広げて、紙コップにジュースを注いでみんなに配りました。
Mさんたちはそこから普通に
「今日の授業はねー」とか
「◯◯先生ヤバいよねー」とか
「◯◯さんウケルよねー」とか
いつも学校で話しているような、他愛もないおしゃべりをはじめたのです。
彼女たちは一言も「どうして学校にこないの?」とか「心配しているから学校おいでよ」とか言いませんでした。
学校のあるあるや、友達や先生の噂話で盛り上がり、私の部屋で思いっきりくつろいでいました。
私もいつの間にかその空気に飲まれて、一緒に笑ったりしていたのです。
しばらく、食べて飲んでおしゃべりしたらMさんたちは「そろそろ帰るね」と立ち上がりました。
部屋から見送ると
「じゃあ、また明日会おうね」
と手を振って帰って行きました。
友達がいきなり家にやってくる!!
また明日会おうね・・・
しばらくその言葉を反芻していました。
母の話では、Mさんは玄関で母に「遊びにきました」とだけ伝えて、笑顔で「お邪魔しますー」と上がり込んで来たようです。
母が私に「お友達が来たけどどうする?」と確認でも取ろうものなら、必ず「会いたくないから帰ってもらって」と拒否していたはずです。
Mさんはそれを予想していて、笑顔で挨拶しながらも強引に、有無を言わさずに上がり込んで来たのではないだろうかと思われます。
そうでもしないと、決して私に会うことはなかったはずです。
部屋に入って来ても、どうして学校に来ないのかと尋ねたり、学校に行くように誘ったりしないように打ち合わせしていたのでは?と考えられます。
誰かがそう言った声かけをしても良さそうなのに、誰一人としてそう言うことは口に出さなかったのです。
もし、あの場でそんなことを言われたら、いたたまれなくなって、逃げ出したくなって、ますます心を閉ざしていただろう思われます。
彼女たちはひたすらいつも通りにふるまい、つい聞きたくなるような楽しい話をしては場を和ませてくれて、ひと時の間学校に行けていないことを忘れさせてくれました。
和んだところで、帰り際に「明日」の提案をしてきました。
そのおかげで、一切負担に感じずに「明日」そのままいつも通りに学校に行ってもいいような気がしてきたのです。
最低でも彼女たちだけは、私が学校に行けないことを非難したり、攻めたりはしないことが確信できました。
そこで、「学校に行ってもいいんだ、行って大丈夫なんだ」と思えたのです。
やさしい策士のおかげて学校に行けた
これが全部自然に行われた行為ではなくて、こちらの心理を読んで行われたのなら、Mさんはかなりの策士です。
普段のMさんはおしゃべが好きで、ややこしい事や難しいことはどうでもいいから楽しくしゃべって笑ってよう!という感じの人です。
巧妙に策を練って人を動かす人には全然見えないのです。
策ではないのなら、相手の立場になって相手の気持ちを考えて、自然に起こせた行動なのかもしれないです。
もし策士だとしたら、やさしい策士なのでしょう。
実際にこれが策がどうかはわからないのですが、Mさんの策に乗ってみようと思いました。
Mさんなら居場所を見つけてくれる気がするし、この状況から脱出する絶好のチャンスなのです。
そして、翌日はかなりの勇気を振り絞っていつも通りに普通に登校しました。
もちろん私が教室に入ると、教室がざわめいて遠巻きにコソコソと言ってる人がいるのがわかりました。
Mさんたちがなんでもなかったように、いつも通りに「おはよう」とすぐに近づいてきて、いつものように朝のおしゃべりを始めたので、そんなことは全く気になりませんでした。
こうして、やさしい策士のMさんたちのおかげで、2ヶ月足らずの不登校に幕を下ろすことができたのでした。
まとめ
学校に行けない時期は、いつも以上に感覚が過敏になっています。
ちょっとした、人の気遣いや配慮さえも負担に感じてしまいがちです。
学校に対してもかなり用心深くなっているので、学校に行きたい、行かなければと思っていても、とても普段通りに行くのが難しくなっています。
だからと言って、腫れ物に触るような接し方をしても、なおさら過敏な状態に拍車がかかってしまい、不登校の本人も相手に気を使ってしまいます。
いつも通り、普段通りの接し方だと気負わずに話せるのかなと思います。
Mさんたちの珍入?は絶妙なタイミングであって、気持ちの負担にならなかったので、彼女たちを信じようと思いました。
お陰で2ヶ月ほどの不登校で、学校に戻れたのですが、あのタイミングが無ければそのまま学校に行けずに辞めていたかも知れないです。
P. S
Mさんは高校を卒業して、看護師の資格を取って看護師になりましたが、今でも看護師をしているだろうと思われます。
きっと、患者さんの気持ちを理解して、患者さんに寄り添った看護師になっているのではないかと思っています。