ある日を境にして、子供が学校に行きたがらなくなり、とうとう登校を拒むようになると、母親は
「なぜうちの子が不登校になるの?原因はなに?」
あれこれと思い悩むことだと思います。
次女が小学校に行かなくなった時に、以前からしきりに訴えていた友達との関係が原因だろうとその時は思いました。
娘がだいぶ大きくなって“あの時”のことをいろいろと話す機会が多くなって、原因は一つではなくて、たくさんのことが積み重なっていって我慢に我慢を重ねた結果、とうとう行けなくなったのではないのかと想うようになりました。
我が家の娘の場合の、学校に行けなくなった時のことを振り返ってみて、不登校になってしまった原因について考えていきます。
原因1 友達との関係
娘の通っていた小学校は、全校生徒が30人ほどの小さな学校で、同級生も娘を入れて4人だけで、2学年で1クラスになる「複式学級」でした。
娘が学校に行けなくなった4年生の時は、3年生の女の子1人と、4年生の男女4人の全員で5人のクラスでした。
少人数で仲良く過ごしていたのですが、だんだんと4年生の女の子一人の機嫌に振り回されるようになってきました。
「今日は○○ちゃんと口をきいてはいけない日ね」
とその子に決められると、その日一日は誰からも口をきいてもらえずに無視される日になってしまいます。
いつも3年生の女の子と、自己主張ができない娘が交互に無視のターゲットになっていました。
担任の先生に相談したら、道徳の時間に「いじめ」についての授業を行い、いじめられる子の辛さをみんなで話し合ったようでした。
しかし、無視の命令をしていた子が授業で手を上げて
「いじめは良くないと思います、いじめられる子がかわいそうです」
と発表したにも関わらず、無視の命令は相変わらず続くのです。
クラス内でそういった不穏な関係があったかと思うと、すごく仲のいい時もあったりしました。
お休みの日にみんなでお弁当を作って、野原でピクニックをしたり、お互いの家にお泊りに行ったりで、ずっと仲が悪いままというわけでもないのです。
なので結局“少し様子をみましょう”という判断になりました。
でも、大人が様子を見ている間にも、無視のターゲットになった子供は確実に傷つきながら毎日を過ごしていたのです。
原因2 認めてもらえないことで自分に自信をなくした
一輪車競争の選手になれなかった
小学校に入学してすぐに、娘は一輪車に乗るのに夢中になりました。
一人に一台の一輪車が与えられて、体育の授業や休み時間にみんなで練習して、ほぼ全員が乗れるようになります。
今すぐにでも乗れるようになりたい娘は、休み時間や放課後になると一目散に駆けつけては一輪車の練習をして、他の子が飽きて別のことをしていても、一人だけで延々と練習をしていたようでした。
そのため、一番最初に乗れるようになり、次々とバックやジャンプの技ができるようになって、上級生に交じって大車輪の大技もこなしていました。
本人が一輪車に乗るのが大好きな上に、周囲からも「一輪車が得意な子」と認識されていました。
3年生になった時に、スポーツ大会の一輪車競争に出場する選手が、学年で1名だけ選ばれることになりました。
誰もが選手に選ばれるのは娘だろうと予想していましたが、選抜のためのタイムトライアルでは2位だったため選手には選ばれませんでした。
娘はとても背が低くくて、1位になった子の一輪車は娘の使っている一輪車よりも一回り以上大きかったので、それでタイムに差が出たのだろうと思われました。
活発な割には体が小さいために、スポーツに関しては何をやってもいい結果出せていなかったのですが、一輪車競争だけには絶対に自信があったので、選抜から落ちたことにかなり落ち込んでいました。
でも、タイムが一位の子に届かなかったのは事実なので仕方ないよね、と慰めるしかなかったのでした。
ピアノの伴奏に選ばれなかった
一輪車の他にもう一つ絶対的に自信を持っていたのは、ピアノの演奏でした。
娘は、小さい頃から外を走り回って遊ぶのが大好きで、じっとしているのが苦手でした。
それなので、姉のレッスンについて行ったことがきっかけで習いだしたピアノに夢中になるのは、全くの予想外のことでした。
普段はじっと机に向かっているのがもどかしくて、適当に宿題を済ませたらさっさと外に遊びに行ってずっと走りまわっているのに、ピアノの練習だけは熱心に取り組んでいました。
3年生の時に、他校との交流会でピアノの伴奏をして欲しいと担任の先生から頼まれました。
楽譜がちょっと難しかったので、クラスで他にもピアノを習っている子と二人で、右手と左手のパートに分けて弾くことになったのですが、なかなか弾けなくて困っていました。
少しピアノを習ったことがある人は分かると思いますが、レッスン用の楽譜は難しそうな曲でも指の運びが弾きやすいように作られていて、楽譜に書かれている指番号通りの指使いをすることで上手く弾くことができます。
しかし、レッスン曲ではない曲は、簡単そうな曲でも指の動きが複雑でなかなか弾きにくい上に、指を動かす順番の指番号が書かれていないので、指使いがめちゃめちゃになることでいつまでも上手く弾けないのです。
そこで、学校が休みの日を利用して一緒に弾く子に家に来てもらって、私が指使いを教えて練習を繰り返すことでやっと弾けるようになり、なんとか本番に間に合いました。
交流会での伴奏が好評だったので、学習発表会でも同じ曲を伴奏してみんなで合唱することになりました。
それまでに、弾き方を娘が他の子にも教えていたので、他の子も伴奏できるようになっていました。
他にも伴奏したい子が出てきたので、じゃんけんで伴奏者を決めることになり、じゃんけんに負けた娘は伴奏から外れてしまいました。
交流会は少人数でこじんまりとした中で開かれましたが、学習発表会は大勢の人が見に来るので、そこで伴奏ができなかったのはかなり悔しそうでした。
でも、「じゃんけんだから平等だよね」と言われたらあきらめるしかなかったのです。
実は、本当に悔しかったのは別のところにも理由がありました。
一輪車の選手に選ばれたのも、じゃんけんに勝って伴奏をしたのも「今日は○○ちゃんと口をきいたらダメだよ」の命令をしていた子だったのです。
自信があることは認められずに欠点は指摘される
娘はよく言えばおおらかで、悪く言えば大雑把なところがあります。
そのために、1年生の頃からちょっとしたうっかりミスが多かったのですが、おおらかなので「まあいいか」で済ませていました。
でも、そこを細かく指摘してくるクラスメイトがいて、
「私のすること監視するように見ていて、いちいち文句つけたり舌打ちしたりでうざいんだよ」
と1年生の頃から年中愚痴をこぼしていました。
こうやって自信のあるところは認められず、欠点は大いに指摘され続け、自尊心がすっかり傷ついてしまったようでした。
小さい学校では、良くも悪くも『個』の存在が際立っています。
大勢の中で過ごすよりも一人の存在感が大きくなり、個性が尊重されやすいので、良い面を見つけてもらうと持っている力を発揮しやすくなります。
しかし、大勢の中でなら紛れて目立たないような欠点が、目立つことにもなります。
小さい学校の困ったところは、少ない人数で、同じ顔触れでずっと一緒に過ごさないといけないので、一度関係が崩れても逃げ場がないので、卒業までずっと我慢しないといけなくなります。
だんだんと学校が楽しくないところになっても、クラス替えもなく来年もその次の年もずっと同じ仲間と過ごさないといけないのです。
原因3 家庭での問題
次女が悩みを抱えながら毎日登校していた頃、発達障害の長女が中学校で不登校になっていました。
そして、長女が学校に行かなくなってすぐに、職場でトラブルを抱えていた父親も仕事に行かなくなりました。
その頃は私は、昼間はパートの仕事に出かけていたので、次女が学校から帰って来たらまず、姉と父親が家の中でゴロゴロしている光景を目にすることになります。
学校で仲間外れになり嫌な想いをして帰宅したら、家の中は重苦しいし、相談したい母親は家にいないのです。
次女が登校を拒否したのがある日突然だったので、もしかしたらパートに行きながら長女の学校や、父親の職場との話し合いに奔走していた私に遠慮して、学校が辛いことを言い出せないでいたのかも知れないです。
父親は仕事に行けないことで自暴自棄にになり、家族に八つ当たりするのもしばしばだったので、父親の機嫌を損ねないように家中がピリピリしていました。
学校で嫌なことがあっても、家の中が安心できて落ち着ける場所だと、我慢出来たり、乗り越えられたりできたのかもしれません。
学校が辛くて、家の中も安心できる場所ではなくなったことで、ずっと張りつめていた糸が切れてしまったのではなかったのだろうと感じました。
その時は、本人の訴えもあってこれらのことが不登校の原因と考えられていました。
娘が大きくなって、当時のことをあれこれと話し合う機会が多くなってきて、他にも原因があったのでは?と考えるようになったのです。
原因4 本人の問題
小さい頃から人見知りの激しかった娘は、入学式の時は消え入りそうになるくらいに小さくなっていて、担任の先生が「この子は毎日ちゃんと学校に来れるだろうか?」と心配したほどでした。
幼稚園生の頃も、入園してしばらくは全くしゃべらなかったようで、先生から
「今日、はじめて返事をしてくれて声を聞けました」
とか、お友達からも
「今日笑ったの初めて見たよ!」
とかの報告をお迎えに行くとしばらく聞かされていました。
でも、家に帰るために車に乗ると、咳を切ったようにして弾丸のようにしゃべりだすのでした。
お友達の様子や先生が話したことなど、細かいところまでよく見ていて、話の内容がとても面白かったので、外で話さなくても全然問題ないと思っていました。
家ではたくさん話して、自分の気持ちもしっかりと伝えられるけど、外に出ると自己主張が全くできない「内弁慶」なのです。
そのために友達から嫌なことをされたり、言われたりしてもはっきりと「イヤ」と言うことができずに、我慢をして損をすることが多いのです。
自分の気持ちをはっきり伝えられないことで、相手の言いなりになってしまうことがよくあったようです。
それと、周りの人の気持ちを敏感に感じ取ってしまうので、相手がどう想っているのか気にしすぎてしまって、自分の気持ちを後回しにしてしまうようでした。
原因5 親の問題
私自身が褒められた経験が少ないので、人に褒められるのがすごく苦手です。
褒められると、ものすごく恥ずかしくなり逃げ出したくなってしまいます。
そのせいか子供を褒めるのも恥ずかしくて、褒め方が遠回しだったり、ふざけて茶化しながら褒めたりしていました。
「おかあさんが私のことを認めているのはちゃんと知ってるよ」
とは言うのですが、本当にそうなのか自信が持てなかったようでした。
発達障害の長女は、明確な言葉でないと伝わりにくかったし、出来ないことが多かったので、あえて分かりやすくたくさん褒めていました。
次女の場合は、
「普段の会話や行動で分かってくれている」
「いちいち言葉にしなくてもちゃんとわかってくれる子」
と勝手に思い込んでしまって、はっきりとした伝え方をしていませんでした。
ちゃんと褒められていて自分自身にしっかりとした自信が持てていたら、一輪車競争の選手になれなくても、ピアノの伴奏が出来なくても、
「結果に繋がらなかったのはたまたま運が悪かっただけ、自分は頑張ったしちゃんとできているから全然負けていないし、好きな事に集中できている自分は偉いんだ」
と結果にとらわれずに、自分のことを認められていたのではないだろうかと考えられるのです。
まとめ
娘が学校に行けなくなった時に、まず考えたのは、「原因1」の友達との関係でした。
「どうして学校に行きたくないの?」
と聞いた時にしきりに訴えてきたので、学校に行けなくなった直接の原因だったと思われます。
小さい学校でずっと同じ顔触れが続いて「我慢していた嫌な事」もずっと続いていたところに「仲間外れ」で学校が辛い場所になってしまったようでした。
そうやって我慢をしているところに「家庭環境の乱れ」が起こり、我慢が限界になったのかなと考えられます。
娘がもともと持っていた「自信のなさ」や「人の気持ちに敏感なところ」も直接の原因ではないにせよ、友達と対等の関係が築けなかったことで、学校が嫌になってしまったのだと最近になって気がつきました。
仲間外れにしたり、嫌味を言ったりして人を傷つけるのはもちろん悪いことですが、そこから自分を守るのも自分のために大事なことだと思うのです。
自分で自分のことを認められていて、自分に自信を持つことで、自分を守ることができたのではなかったのだろうかと、大きくなった娘とこの頃よく話したりしています。
親にしてみれば『ある日突然学校に行かなくなった』と感じていても、学校に行けなくなるまでの間にたくさんの積み重ねがあって、そこに大きな出来事が起こり、我慢に限界が来た時にとうとう行けなくなったのでした。
なので、学校に行けなくなった直接的な原因ばかりに目を向けていれば、一時的に解決したとしても、また同じことが起きる可能性があるのです。
不登校になる理由は人それぞれで、その人の持つ個性や、家庭環境や学校や友達との関係で違ってくるのだろうと思われます。
理由も一つだけではなく、様々な理由が複雑に絡みあっていたり、自分では全く気がつかなかったりする場合もあるのかもしれません。
娘が不登校になったと考えられる原因を、娘と話しながら自分たちなりに考えてみました。
不登校の原因の一つの例として、参考になれば幸いです。